日本に塩業近代化法なるものが出来て、それまで長きにわたり営々と営まれていた塩田が廃止され、イオン交換樹脂膜法という化学的に海水を電気分解して作る製塩法に切り替えられたが、そうして出来た塩とは純度99.8〜9%Nacl(塩化ナトリウム)というまさに化学物質であった。
それに対して、広範な市民やさまざまな分野の専門家たちからも、この政府の愚挙とも言える政策に対して反対の声が上がって広がって行ったのだ。
塩の品質が悪くなって、一番困ったのは一般家庭のお母さん達や料理を作る人や、食品製造に携わってる人たちであった。
作った料理が美味しくなくなった!
漬けもの屋さんは、塩が変わって漬けものが漬からなくなったと言い出した。
当然である、発酵の素となるミネラルがなくなった塩では酵素が活動しないからなのだ。
料理屋さんでは、今までの味が出せなくなった。
これも当然のことである。
微量元素のなくなった塩では様々な酵素が活動出来ないので、微妙な味わいが出せないのだ。
専門分野の研究者や学者達も政府のあまりの暴挙に、当然反論し、立ち上がった人たちがいた。
当然のごとく、消費者運動をするお母さん達の間には劣悪になった塩を変えなければという情報が広がっていったのだ。
塩田による塩業を廃止させた本当の理由は、産業を近代化するために工場用地を確保するためだったと私は思っている。
特に瀬戸内の塩田地帯は廃止されたと同時に、自然に溶け込んでいたのどかな塩田風景は見事(?)な化学工場地帯へと変貌を遂げた訳だが、私には塩田廃止の裏には政府やまた時の政権と癒着した産業界らの陰謀無くしては考えられない。
また、塩の品質が悪くなって一番儲かった産業は何かというと、廃止された塩田地帯に建てられた石油コンビナートや、化学調味料を作る会社ではなかったかと思ってしまう。
塩が悪くなった頃、なぜか化学調味料をご飯にふりかけて食べると頭が良くなるという噂が流れて多くの人が味の素をご飯にかけて食べていた。
寿司屋の中には握った寿司の上から化学調味料を振りかける寿司屋もあったほどだ。
今考えれば、愚の骨頂と笑い飛ばす話だが、塩の品質が悪化したその代用のようにあらゆる食品に化学調味料が添加されて行き、国民全体が化学調味料の中毒患者に仕立て上げられて行ったのだと思う。
そして、その化学調味料中毒患者化計画は、入っていないものは無いというくらいほとんどの食品に浸透して行った。
入っていないものは自然食品の店で買える食品くらいのものである。
実は、塩を変えることは、日本人の食文化の根本から根こそぎ変える、凄まじい民族絶滅へのからくりが仕組まれていたのではないかと思ってしまうほどの重大な影響を与える出来事であったのだ。
日本に塩業近代化法なるものが出来て、それまで長きにわたり営々と営まれていた塩田が廃止され、イオン交換樹脂膜法という化学的に海水を電気分解して作る製塩法に切り替えられたが、そうして出来た塩とは純度99.8〜9%Nacl(塩化ナトリウム)というまさに化学物質であった。
それに対して、広範な市民やさまざまな分野の専門家たちからも、この政府の愚挙とも言える政策に対して反対の声が上がって広がって行ったのだ。
塩の品質が悪くなって、一番困ったのは一般家庭のお母さん達や料理を作る人や、食品製造に携わってる人たちであった。
作った料理が美味しくなくなった!
漬けもの屋さんは、塩が変わって漬けものが漬からなくなったと言い出した。
当然である、発酵の素となるミネラルがなくなった塩では酵素が活動しないからなのだ。
料理屋さんでは、今までの味が出せなくなった。
これも当然のことである。
微量元素のなくなった塩では様々な酵素が活動出来ないので、微妙な味わいが出せないのだ。
専門分野の研究者や学者達も政府のあまりの暴挙に、当然反論し、立ち上がった人たちがいた。
当然のごとく、消費者運動をするお母さん達の間には劣悪になった塩を変えなければという情報が広がっていったのだ。
塩田による塩業を廃止させた本当の理由は、産業を近代化するために工場用地を確保するためだったと私は思っている。
特に瀬戸内の塩田地帯は廃止されたと同時に、自然に溶け込んでいたのどかな塩田風景は見事(?)な化学工場地帯へと変貌を遂げた訳だが、私には塩田廃止の裏には政府やまた時の政権と癒着した産業界らの陰謀無くしては考えられない。
また、塩の品質が悪くなって一番儲かった産業は何かというと、廃止された塩田地帯に建てられた石油コンビナートや、化学調味料を作る会社ではなかったかと思ってしまう。
塩が悪くなった頃、なぜか化学調味料をご飯にふりかけて食べると頭が良くなるという噂が流れて多くの人が味の素をご飯にかけて食べていた。
寿司屋の中には握った寿司の上から化学調味料を振りかける寿司屋もあったほどだ。
今考えれば、愚の骨頂と笑い飛ばす話だが、塩の品質が悪化したその代用のようにあらゆる食品に化学調味料が添加されて行き、国民全体が化学調味料の中毒患者に仕立て上げられて行ったのだと思う。
そして、その化学調味料中毒患者化計画は、入っていないものは無いというくらいほとんどの食品に浸透して行った。
入っていないものは自然食品の店で買える食品くらいのものである。
実は、塩を変えることは、日本人の食文化の根本から根こそぎ変える、凄まじい民族絶滅へのからくりが仕組まれていたのではないかと思ってしまうほどの重大な影響を与える出来事であったのだ。
「ニガリの研究者・真島真平先生との出会い」
ある時、伊豆大島の馬伏の海塩作りの現場作業のワークキャンプに行っていた時に、谷さんから面白い話を聞いた。
山口県の防府に真島先生という医師がいて海水を濃縮した液を作って患者さんに投与したところ、あらゆる病状が改善されているという話で、先方から谷さんに連絡があったという話だった。
その話を聞いた時に、医療の現場での実証があるという事は、塩の品質の検証にとって素晴らしい証明になるだろうと閃いた!
もちろん谷さんも同様に考えていた。
そして谷さんと真島先生は文通して何通もの書簡を取り交わしている。
自然塩復活運動には、大きく第一期の原塩を輸入しニガリを輸入して、真水に溶かし、それを炊き直して塩を作るという「輸入再生塩」を作った運動、そして第二期と私が名付けている海水を濃縮して直に塩を作った「自然海塩」を作った運動があった事は既に述べた。
第一期に作った塩は原料となる原塩とは、かつて海だったところが地殻変動の影響で隆起して地上に塩分が残って自然結晶したものだが、長い年月の間風雨などの影響により塩の層のような形で残されたものだ。この2種の塩の違いは何かというと、圧倒的な違いはミネラルの含有量の違いである。
しかしこの原塩を成分分析をするとほとんどが塩化ナトリウムで、日本の専売公社が作る電気分解の99.9%塩化ナトリウムの化学塩と変わらない。
つまり、長い年月の間に風や雨の影響で、微量ミネラル類は地中に溶け出してしまい他の微量ミネラルがなくなって塩化ナトリウムだけの結晶体になってしまったものが原塩という訳だ。
そこで、失われたニガリ分(微量ミネラル分)を補う為に中国からニガリを輸入して添加する事になった訳だが、ここで皆さんには是非知ってもらいたい大事な事がある。
そのニガリは固形ニガリだったのだ。
一般的にニガリ、ニガリと言われているが、実はニガリには固形のニガリと、液体のニガリが有ってどちらもニガリと呼ばれているが内容は全く違う。
固形のニガリとは、実体はマグネシウムの単体での結晶体の事であって、液体のニガリとはマグネシウムが一番多く含まれてはいるが、マグネシウム以外の90種類を越える様々な微量ミネラルが含まれているものなのだ。
ここに第一期に作られた「輸入再生塩」と第二期に作られた「自然海塩」との間には実は圧倒的に大きな差があるのだ。
つまり、自然海塩の方が豊富に微量ミネラルが含まれているのだ。
その微量ミネラルの働きを証明することができれば人間にとってどのような塩が必要なのかをさらに突き詰めて行く事が出来る。
その塩の品質問題を解き明かす上でその微量ミネラル分を濃縮して患者さんに投与して様々な病状を改善させている真島真平先生の医療の現場での実証は素晴らしい可能性を秘めたものだと私は思ったのだ。
谷さんがカエルの心臓の人工還流の実験で塩の品質問題にひとつの明快な結論を出そうと考えたのには、専売公社の電気分解による純度99.9%の化学塩があり、また自然塩復活運動第1期に出来た原塩と固形ニガリを再結晶さてた輸入再生塩があり、また第2期にやっと海水を直に濃縮して作った自然海塩という、大きく3種に分類できる塩の他にも岩塩や湖塩など様々な塩があり、これらの中で自然海塩が最もヒトにとって必要な塩であることを理論だけではなく、生物実験によって証明する必要があると考えたからだった。
現在の科学では、これを証明しない限り科学者や学会を説得する力はない。
谷さんの目標のひとつはWHO・世界保健機構の塩に関する認識を変え、世界の塩に対する認識を変え、塩の認識を確立するということだった。
生物実験となれば、ヒトに近い動物を使った実験ほど説得力はあるということになるが、動物実験をどこかの大学の医学部などに依頼すると、とてつもない費用がかかる。
予算ゼロ、専売法で規制され作った塩さえ海に捨てなければならないという状況で、ほとんど手弁当と有志の寄付や、会員の会費や無償のボランティアで続けて来た当日の自然海塩運動の中でそれはそれはまったく不可能な話であった。
まったくのゼロからスタートして、初めて海水から塩を作り、やがて会員制にして会員だけの会員配布がはじまり、やがて専売法が撤廃されることになり、塩の販売が出来るようになった。
私は、谷さんと阪本さんの2家族が大島に移り住み始めた頃に知り合い、以来10年に渡って無償のボランティアで、ワークキャンプを組織して多くの若者たちとこの自然海塩運動を応援し続けた。
そして、初めて出来た塩、風力と太陽熱だけで出来た「天日海塩」を持って11ヶ月に渡る日本縦断「生存の行進」を行って北海道から沖縄まで4000キロを歩いて各地で様々な人びとにこの塩運動を語り、塩を手渡して行った。
そのように、学者、主婦、サラリーマン、学生、料理の専門家から、ヒッピーまで本当に日本の塩が悪化した事を憂い、改革を求めて実に広汎な人々がこの運動に立ち上がったからこそ専売法を撤廃に追い込んだのではないかと思っている。
ただ返す返すも残念だったのは、谷さんが途上で亡くなった事である。
谷さんは、専売法が撤廃され、塩運動の本体となって会員への配布を行っていた事務局が会社となって自然海塩の流通が始まると、塩の品質の生物実験を進める為に秋田に移住して、移住先で発病して亡くなった。
自らが作った塩運動で作られた事業体からもほとんど支援は無かったようだ。
現在、巷には多くの塩が売られていて、各地では地場産業として自然な塩作りがブームのようになっている。
しかし、まさに孤立無援で塩運動を行ってきた谷さんや阪本さんたちの存在は塩の歴史の中では特筆すべき存在でありながら、今日その名前を知る人すらいない。
そして、まだ塩を通じて世界を変えようとした、その遠大なビジョンは実現されておらず、まだまだ道は半ばなのだ。
さて、自然塩運動と言っても自然塩運動には、第一段階の自然塩運動と第二段階の自然塩運動があったと総括出来る。
第一段階の自然塩運動とは、未だ専売法が撤廃され無い段階で、海水からの塩作りが禁止されている中で、より自然に近い塩を作ろうとした運動で、これらは原塩と呼ばれる塩を輸入し、そのままではほぼ塩化ナトリウム100%に近いので、中国などから塩化マグネシウム(固形ニガリ)を輸入し、両者を水に溶かして炊き直して作る、いわゆる輸入再生塩の製造と普及を図る運動。
第二段階の自然塩運動とは、海水から直に塩を作るいわゆる「自然海塩」作りである。
自然海塩運動の思想的背景となった1人の人物がいます。
その人の名前は19世紀の生物学者のエルンスト・ヘッケル。
彼は発生学のエキスパートとも言える存在で生命反復説という学説を唱えた。
おおざっぱに言えば進化論で、生物は単細胞生物から始まり、魚類、両生類、爬虫類、哺乳類など様々な生物進化を遂げてヒトになっていると唱えた。
発生学の三木成男先生は、人間の胎児は妊娠中の十月十日の間に、子宮の羊水の中で卵子という原始単細胞生物からヒト迄の数十億年に渡る生物進化を全て体験しながら成長して誕生すると言われた。
いわば羊水とは、生命を育み育てて来た生命の母である。
太古から綿々と続いている母なる海であると言えるのです。
その貴重な「母なる海」を作る根本となるものが「塩」である。
そう考えた時、いかに塩が大事なものであるかが分かるでしょう。
塩の成分の豊かさ、品質の良し悪しで、人間の身体や脳の発育だって影響を受けている可能性があります。そう考えれば、まだ解決されていない塩の品質問題は途轍もなく重大な要素であると言わざる得ないのです。
谷さんや阪本さんがやり始めた自然海塩運動には多くの優れた学者の方々が注目し、応援していたと言って来ましたが、この日本に起こった自然海塩運動には、様々な方面からの期待が集まっていたのです。
決して唯一つの塩の会社を作るために皆さんが心血を注いで応援した訳ではないんです。
そこに、人間の根本的問題の解決、そして科学の根本的な進化の可能性があるゆえに、皆さんが応援したのです。
話は変わりますが私が谷さんから聞いた話の中に、犬の血液と塩水を入れ替えた研究が19世紀に行われて、普通の犬の寿命の倍ほど生きた、という事を聞いた事があります。
おそらくは今の点滴などのリンゲル液などの研究にも通じるものだと思いますが、谷さんが次にやろうとしていた塩の品質の証明実験として考えていた、カエルの心臓の人工還流とは生物実験によって塩の品質を証明されようとしていたのです。
つまり、カエルの血液と様々な塩から作った点滴液とを入れ替えて塩の品質問題に決着をつけるつもりだったのです。
前回ふれた発生学の三木成夫先生の他にも自然海塩運動の支援を手弁当で買って出てくれた学者の先生達は、分析化学の武者宗一郎先生、食品衛生学者の天野慶之先生、牛尾病院院長の牛尾盛保先生他多くがいて、自然海塩運動はあたかも一大思想改革運動に発展する様相を呈していた。
しかし、大変残念ながら、研究会から会社設立に至る過程で会社設立に関わった一部の人間たちの間で運動的な支援者の排除が行われ、会社は私物化され、運動は消滅させられたのである。
この事によって自然海塩運動の社会変革的な要素は急速に失われて行った。
まさに、千載一遇の「いのちの本質」に向かう生命運動のチャンスは失われたのである。
自然海塩運動の高まりの中で、政府はそれまでの塩の専売法を廃止せざるを得ない事態になり、以降各地で素晴らしい塩が出来て、多くの国民が美味しい、そしてミネラルバランスのとれた本物の塩を食べられるようになったのは塩運動の一大成果であった。
そういう意味では自然塩運動は稀に見る民衆側が行政側に変革を強いた輝かしい運動であった。
しかし、今回私がこの記事を書いて皆さんにお伝えしたいのは、道半ばで頓挫している実に遠大な自然海塩運動のビジョンと可能性についてなのだ。
以前谷さんの紹介をしたところで谷さんはマクロビオティック運動の創始者桜澤如一先生の原子転換研究チームの最後のメンバーであると紹介した。
谷さんは、流下式塩田の廃止に反対する各地の運動からの依頼を受けて調査を始めたが、流下式塩田で作られていた塩と、その後のイオン交換樹脂膜法で作られ始めた塩とでは塩の品質があまり変わっていない事に気づいた。と同時に、歴史を遡るほどミネラルを多く含んだ塩が作られていた事に気づいた。
問題は精製という発想の中で、塩の本質が失われて行ったことを発見して、本来の塩とは、生命を産み出した「海」でなければならないとの確信に至ったのである。
我々の血液や体液は塩分を持ち、海と同じようなミネラルバランスで成り立ってる。
生命的に言えば我々の遠い祖先は海の中で発生し、長く海中で生活していたが、やがて陸上でも生活できる環境が整うと一部が陸上に上がって生活するようになった。
しかし、体内にはミクロの海を作って生きている、その海の要素を補充して取り入れるものが「塩」である。
本来人間が摂るべき塩、生命の根源となる塩を作り、多くの人々に手渡す事は大事な事であったが、さらに遠大な計画のほんの入り口にしか過ぎなかったのだ。
谷さんは、ただ良い塩を作るだけでは未だ不十分で、それがどのように良いのかを塩の品質を実験によって証明して、WHOに働きかけて世界中の人々に塩の品質問題を明らかにしようと考えたのだった。
そして谷さんが次に行おうとしていた事はカエルの心臓の人工還流という実験で、その研究に入ろうとする途上で、44才の若さで亡くなられた。
彼はさらに塩問題に決着をつけた後に取り組もうとしていたものは原子転換の証明であった。
さて前号で、谷さん達は塩の品質検査をするうちに、廃止された塩田で作られていた塩と、その後始まったイオン交換樹脂膜法で作られた塩がさほど大きな成分の違いがなく、さらに以前の時代に遡れば遡る程豊富なミネラルを含んだミネラル含有量の多い塩を作っていた事を発見したというところまで書いた。
塩田廃止の政府側の裏事情は、当時全盛期だった石油化学などを始めとする化学工業の用地確保が理由だろうが、国民の健康問題より目先の金目当てで行ったのは確かだろう。
しかし塩田廃止当時の消費者運動の主流は塩田の復活を求めていたものの、恐らく運動していた方々も長い目で見た塩の品質の変化までは気づいていなかったのだろう。
品質調査を行ううちに新たな視点と結論が出た事になる。
元来が学者肌の谷さんは、地球の生命発生と塩との問題まで考えを進めることになった。
かつて火の玉のようにマグマの塊であった地球が、彗星などの接近などの歴史を経て長い長い年月をかけて水の塊である海が出来、雨などの水の循環によって地球上のあらゆる鉱物(ミネラル)がその中に溶け出して行った。
そしてさらに長い長い年月を経て、様々なミネラルを含んだ原始の海の中に、我々地球生命の生みの親ともいえる地球上初めての原始生命が発生したと考えられている。
それは、未だ動物にも植物にも進化していない単細胞生物であった。 現代の定説では、太陽光線の行き届く水深10メートル位の海底で発生したと考えられている。
その原始生命が発生した時、現在の海より多少塩分は薄いが、ほとんど今の海と変わらないミネラルバランスの海が出来ており、その海無しには生命の発生は考えられない。 つまり、海が我々地球生命のいのちのふるさとであると言うことになる。
当時、谷さん達の塩に対する視点は遠大で多くの人々の目を覚ます様な刺激があったので、多くの日本の先進的な学者の先生方が、谷さん達のこの自然海塩運動を注目した。
その塩運動を応援した学者の中に発生学の三木成夫先生がいた。
三木先生の研究は人間は母胎の中で受精してから生まれる迄に生命発生から人類として生まれる迄の何十億年という生命進化を全て体験して生まれてくるという発生学の研究であった。
まさに卵子という単細胞生物が受精した瞬間から凄まじ程の細胞分裂が始まり、妊娠中の十月十日の間にある時は魚類、ある時両棲類、爬虫類、哺乳類など何十億年に渡る生命進化を全て経験して最後に人間の胎児として誕生するというものであった。
この三木先生の研究も他に追随を許さない壮大な研究であった。
そして、これは最も重要なことになるが、その母胎が摂取する「塩」とは、生命が発生した条件を作り出せるような自然海塩であることが大変重要な要素であるという事も三木先生は力説されていたのだ。
私が谷さんや阪本さんと出会った頃は彼らの活動体は「自然塩調査会」という名称だった。
谷さんは元々立命館大学で基礎物理を学び、食養法を知った事からマクロビオティックの提唱者の桜沢如一先生と出会い、桜沢の原子転換の研究チームの最後のメンバーとして参画した。
桜沢先生は現代の物質文明の自滅と崩壊の危機を危惧しており、この物質文明の根幹を成している原子レベルでの思想革命が必要で、その突破口となる研究が原子転換の研究だと考えていた。
またフランスの研究者ルイ・ケルブラン博士とも様々な研究を通じて親交を深めて行った。
又、桜沢氏は食養普及の立場からも「塩」を最も重要視して、日本の食塩の品質悪化を何とか食い止めたいと考えていた。
その桜沢氏に共感して原子転換の研究を進めたい谷さんだったが、とりあえず日本の塩の品質悪化を防ぐために塩業近代化法によってそれまでの流下式塩田が廃止され、代わって登場したイオン交換樹脂膜法によって作られ始めた塩の品質調査を行い、又日本各地で塩の伝統製法を残している製塩場を実地で歩いて調査を行っていた。
しかしその当時既に全ての塩田は新法に寄って公的には全て廃止され、古式製法が公に残されていたのは伊勢神宮の御塩田神社の塩田と能登にある観光用の揚げ浜製塩の塩田のみとなっていた。
そこで谷さん達は、イオン交換法によって作られた塩とそれ以前に行われていた流下式塩田で作られた塩の成分の比較実験を行い、また能登の揚げ浜式製塩法によって作られた塩との比較実験を行いその成分の比較を行ったところ、流下式塩田とイオン交換の塩とでは大きな成分の違いがない事が分かったのだ。
また、古式の自然製法による塩には、当時の流下式塩田やイオン交換樹脂膜法によって作られた塩とは桁違いで豊富なミネラルが含まれていたのだ。そしてそれは塩業を遡るほどミネラルが豊富な塩を作っていた事が分かったのである。
つまり、塩業が続くうちに塩作りの技術がどんどん発展した結果、精製度合いが高くなって行ったという事実が判明し、ただ単に塩田を復活することが良いのではなく、この精製の過程で失われて行った様々なミネラルを多く含んだ、命の発生を可能にした母なる海のミネラルバランスを持った塩を復活させなければならないとの結論に至ったのである。
つまり自然海塩を作る「塩」運動とはただ塩づくりをひと時代前に戻すのではない、根本的な生命観の思想革命運動であると気づいたのだ。
僕が生まれたのは1948年、その当時には色々なお店の軒先には「塩」と書かれた濃紺色の金属製の看板が掛かっていた。
ひょっとしたら、今でも田舎の昔からの商店には今でもお店のどこかに掛かってありそうな。
多分、僕らと同年代の人達には、お馴染みの商店の懐かしい風景でもあるのかと思うが、実はこの塩がとんでもない塩紛いの「塩」だったのだ。
また、僕らが通っていた学校では、理科の先生からは「塩」= Nacl と教わったのでした。
塩は = 塩化ナトリウムと書かないと試験も×でした。しかし、知れば知るほどこれは間違っています!しかも、国家ぐるみでの事実歪曲、そして洗脳教育を行っていたのです。
海水を分析すれば100種類近い元素が検出されます。
つまり地球のあらゆる元素が海に溶け出した、まさに地球でしか出来ない海という存在の中で、初めての単細胞生物という地球生命が誕生した、その生命を発生させた母親が海という存在だったのです。
その海の結晶が塩であり、決して塩化ナトリウムと言うような、単一元素の結晶体ではありません。
おそらく今でも多くの人が、塩 = Nacl(塩化ナトリウム)と思い込んでいるのではないでしょうか?
この自然塩運動が始まった頃に、国の専売公社で発売していた塩と、当時専売法の枠内で輸入された原塩と輸入されたニガリを混ぜて炊き直した、当時の自然塩を希釈して海水に近い濃度の塩水を作ってその中にアサリ貝を入れた実験では、自然塩を希釈した塩水の中のアサリは活発に活動するのに比べて専売公社の塩で作った塩水の中のアサリはほとんど殻を閉じて活動しようとはしませんでした。
いかに自然環境と違うかアサリ貝は身をもって教えてくれたのです。
同じく、塩を同じ濃度に薄めた水槽に金魚を入れた実験では、専売公社の塩水に入れた金魚は早く死んでしまいました。
このような生物実験でも明らかに違いは歴然と証明されたのですが、今でもこの専売公社の塩は多くの食品や加工品に使われています。
生命は海から発生し、しばらくは海の中でしか生きられませんでした。
しかしやがて陸上にも生活領域を広げ陸上でも暮らすように進化して行くのですが、陸に上がっても、身体内には血液、体液というように塩分濃度を保って、体内に海を内蔵する形態に変化して行ったのです!
さて、そこで皆さんに考えてもらいたいのですが、我々にとって、生命にとって、本当に必要な塩とは、どんな塩なのでしょうか?
塩化ナトリウムなのか? はたまた様々な微量元素が豊富に含まれている自然塩なのか?
塩には色々な塩がありますが、やはり最高の塩とは生命を生み出したその海を自然結晶させた塩、わたし達が「自然海塩」と呼ぶ天然の海塩、しかも天日乾燥で出来たものが最高の塩であると自然海塩運動の祖である谷克彦さんが力説されていましたが、私もそう思います!
〜 前回からの続き 〜
そこは、当時のマクロビオティック運動の若者たちが集まっており、その創立メンバーの一人が自然海塩運動の祖とも言える谷克彦さんと共に伊豆大島に渡って自然塩復活の活動を始めた阪本章裕さんだった。
私がキャラバンから戻った頃は谷さんや阪本さん達は家族と共に既に大島に移り住んで、風と太陽熱による史上初となる天日塩製造の為の工場を自ら土木作業をしながら作り始めたところだった。
僕はI amに居を移して会合を重ねながら新たなセンター作りの運動をやり続ける一方、大島に居を移して本格的に塩作りを始めようとしていた阪本さんや谷さんが上京する度に立ち寄って泊まることになり、次第に塩運動の話を聞く機会が多くなった。
当時はまだほとんどの国民は自然塩の存在を知らない状況で、専売公社が販売していた本当にまずい、塩とは言えない塩を食べさせられていた時代であり、地球の45億年の歴史から海が出来、又その海の中で初めて生命が誕生した事、そして遥かな年月を経て陸に上がった生物達も、そして我々人間も身体の中に海を宿している事。
そして我々が摂るべき塩とは、Nacl(塩化ナトリウム)100%近い塩、ではなく生命を生み出したあらゆるミネラルを含んだ生命のふるさとである「海」でなければならない事。
こうした話を聞く内に、塩運動の持つテーマの重大さと谷さん達の並々ならぬ情熱を身を持って理解することとなった。
当時は専売法で厳しい法規制で独占的に作られていた塩は、全く国民の健康には寄与しない塩まがいの化学塩、その厳しい法規制の中で素晴らしい生命観を持って行おうとするまさにいのちの革命とも言える天然の塩作り、これは応援しない訳には行かない、そう決心した僕はその後ワークキャンプを10年以上にわたって行い、初めて出来た天然海塩を持って全国を歩く事になる。
そうした塩運動が起こってからそろそろ40年近くが経とうとしている。
あの時、日本の海を守り、世界の塩を変え、いのちの革命を起こそうとした多くの運動家達が1人欠け2人欠けと少なくなり、当時の塩運動を語れる人も少なくなって来ている現在、なんらかの形で今一度塩運動を振り返る記録なり、イベントを持ちたいと思っています。
今回はやさい村通信の紙面を借りて少しだけ紹介しましたが、連載するか、各地で塩作りを続けている、塩運動の先駆者達に集まってもらってこれから未来の塩運動に繋がる集いを持てたら良いなと思っています。
今後準備しながら又ご報告させて頂きますので乞うご期待です!
1970年代に戦後以来専売法で半強制的に国民全体が食べさせられていた、塩化ナトリウム99%の化学塩を人間本来が摂るべき塩 = 海の結晶の自然塩に変えようと立ち上がった人々がいた。
極々一握りの人々から始まったこの運動は心ある人から人へと語り継がれ、やがて荒野を焼き尽くす燎原の炎のように燃え広がり、やがて専売法撤廃という前代未聞の法改正を成し遂げた。
私は、その運動を知るや、これこそがいのちの原点に立ち返る運動の要だと直感し、初めて海水を天日乾燥させて出来た自然海塩を持ってやがて2度目の日本縦断「生存への行進」を行うことになる。
私が自然塩復活運動を知ったのは1975年、75キャラバン(又はミルキーウエイキャラバン)と呼ばれた日本縦断のキャラバン(1度目)を終えて最終地の北海道から東京に戻り、新たなライフスタイルのためのセンターを作ろうと活動を始めた頃だった。
その活動はマルチメディアセンターを作ろうという呼びかけで始めたのだが、そのミーティング会場を提供してくれた、I am(アイアム)という共同生活体を会場に会合が持たれ、やがて僕はそこに居を移すことになった。